2012年11月18日

「千の風になって」の歌詞への批判

前回の記事で、死んだ人間はただの有機物という話から、「千の風になって」を引用しましたが、なんと、この歌詞に対して仏教史家の「松雄剛次」という人が、その著書の中で「日本の葬礼習俗への挑戦といえるもの」などと批判をしているんですね。

ちょっと驚きました。確かに長い間行われてきた習俗、習慣というものはなかなか払拭できるものではありませんが、そういった、習俗を絶対とする考えに固執するというのはどういうものでしょうか?皆さんもよ〜く考えて見て下さい。故人の骨をお墓に入れて決められた時に、墓参りに行くというのは、確かに故人を忘れないためにもそういう意味では良いことかもしれません。

でも、故人がお墓の中に眠っているとしたら、あんな暗くて寒い地面の下にいるなど、とても可哀相ですよね。皆が死者の魂が地下の暗い墓の中などにいないで、天国ともいえるアナザーワールドに行ったと思えば、お墓など必要ではないとわかるようになるはずです。人間は死なない・・・ということが、理解できればこのような習俗もだんだんとなくなってゆくことでしょう。

人が皆、正しい死生観を持つことにより、高い値段で墓地を買わされたり、戒名を授けると称して数十万円も取られるということが、無くなってゆきます。まあ、こういうことで生業を立てている人には申し訳ないですが・・・・といってもなかなかなくならないとは思いますけどね猫

故人の遺品や大事にしていたものを形見として大切に所有するということは、故人を忘れないという意味では良いことだと思います。そのうえで、故人があちらの世界で楽しく暮らしいるのだという認識があれば、実際の別れはつらくともその後は残された人も元気に生きていけると思うのです。但し、いつも言いますが自殺者やこの地上世界でした行いによっていく場所も違うので一概に楽しく暮らしているとも言えない部分もありますが、普通の善人であれば、少なくともこの地上での暮らしと同じレベルの生活をしているはずです。

もう、いいかげんにお墓だの戒名などという、ものから開放されてみませんか?


posted by Aregro at 13:06| Comment(0) | 精神世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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